伊勢木綿について

[伊勢木綿について]
織本・臼井木綿さんから頂いたコメントです
(伊勢木綿の商品ページはこちら

奈良時代に大和朝廷より錦織の技術が伝わる。
それ以降、絹、麻、草綿等の織物が盛んに織られた。伊勢紬が有名であった。
室町時代に綿の種が伝来、伊勢の地方は土、水、天候、冬場の肥料鰯に恵まれ
綿の生育に、三河、河内等の産地と同じく恵まれ一大産地になった。
特に良質の綿が取れ、最高級の木綿との評価を得た。

江戸時代初期に、川喜多家や田端屋は江戸に持って行き、
伊勢の国からきた木綿、つまり伊勢木綿と呼ばれた。
地元では桑名縞、富田木綿、神戸木綿、白子木綿、安濃木綿、磯山木綿と呼ばれた。

伊勢の国は、現在の伊勢市でなく藤堂藩の収めた所を言う。
また松阪は紀州藩であり江戸時代中ごろに近江商人を呼んで急速に作った町である。
残念ながら、藤堂氏は関が原のときに西軍であった為、家康には可愛がられたが
外様大名であった為、家康亡き後いろいろな圧力を受けた。
その一つがわれわれの先祖に対して、荷物を出す権利、江戸で受ける権利を冥加金制度にし
近江商人は幕府と直結していた為木綿の販売を握ってしまい、
祖先は、利根川沿いに群馬、茨城、千葉のほうに売っていたそうである。
その名残として、白塚に有る常夜灯は千葉の業者から大量に木綿を売ってもらったお礼に作られたという。
また、ロシアに流された大黒屋光大ゆうの積荷は伊勢木綿であった。
藤堂高虎が入城した際、市内を流れる岩田川は晒しを洗う為、真っ白であったとの記述も有る。

基本的に、1600年代の地震、第2次世界大戦、伊勢湾台風等の災害により
ほとんどその資料はなくなっているが、国会図書館に明治時代の伊勢織物誌、津市誌等に載っている。
明治以降、松阪の近江商人は特権がなくなり消滅たが、政商であった為
より儲かる事をして、三井、西武、伊藤忠となっている。近江泥棒伊勢乞食と言われる所以である。
明治以降は、再び直接日本橋との取引をし、一大産地になったが、
戦後、廃業が相次ぎ当社が残っているだけで、地元の人も忘れてしまっている。

[当社について](織本・臼井木綿さんのコメント)
江戸時代中ごろに紺屋を始め、江戸時代終わり頃出機から織り機を並べ
近所の人に働きにきてもらうようになったそうです。
明治の中ごろに、豊田佐吉さんから力織機を買って増産に勤め、現在でもその当時の機械を使っております。
[伊勢唐桟(とうざん)について]
昔より、伊勢の国は絹、麻の織物の産地として有名でした
津もじ  麻の織物で裃に利用した  津の清水村で織られ全国で唯一織ることを幕府より許されていました
絹織物  亀山製糸、高岡製糸など少し内陸に入った地域は絹の生産が盛んでした。伊勢紬の名前で全国的に有名でした
以上のような言い伝えがあります。
室町末期に綿が伝来すると、当地方でも海岸線に近いところで綿の栽培が盛んになり、木綿を大量に生産しておりました。
藤堂高虎が津に入城した折、岩田川が晒しを洗うので真っ白であったとの言い伝えがあります。
また、藍染めの紺無地を白雲織り、千草街道近くで織られたものを千草織りと呼びました。
江戸時代に、奢侈禁止令がでた折に木綿を絹のように細く引き絹の代用品として使われました。
その当時絹よりも高価であったそうです。その柄行きは唐より伝来の柄という意味で唐桟縞と呼ばれ
特に伊勢の国の唐桟は良い綿から引いた糸で織ってある為
高級品の代名詞であったそうです。
その当時から伝わる色々な縞の名前には、カルサン縞、夏縞、冬縞、丸棒等色々用途によってありました。
本商品は、現在考えられる最高級の糸、染めは井上紺屋で昔通りの商品です。
尚、天然藍だけの発酵立ての藍染め師井上さんは
最近力がなくなり糸絞ることが満足に出来ないということで
(糸を斬る)糸染めは止められましたので、もう二度と作ることが出来ません。
本物の藍染めは、色落ちも酷くなく、匂いも綺麗です。何年経っても綺麗な色を保っています。

250年前!! から木綿の織物を製作しておられるとのことです。
スタッフが工房にお邪魔した際に撮らせていただいた貴重な資料写真をご覧下さい。

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